あなたはずっと自分自身を責め続けている

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良いことであれ、悪いことであれ、他者に対して感じることは、全て自分の中にもあるのだ、ということがわかってくると、誰かを批判したり非難したりすることは本当にバカバカしいことだと気づく。(もちろん、誰かに熱狂的に憧れたりすることも同じ理由でバカバカしい)

 

批判や非難をするということは、実は他者という鏡を通して延々と自分自身を攻撃し続けていることなのだ、ということに多くの人はまだ気がついていない。

 

なぜなら、他者の中にそれを見つけることで、自分の中からはそれをきっと追い出せるはずだ、となぜだか本気で信じ込んでしまっているからだ。

 

これを心理学の分野や精神世界の言葉で「影を投げつける」と書いて「投影」と呼んだりもする。

 

そう、人はいつも自分の中の影(自分の中の見えない部分)を知らないうちに他者に投げつけているのだ。

 

これは無意識的に起きてしまう自動反応みたいなもので、人を批判している時、本当は自分が何をしているのか? それについて自覚のある人は皆無と言っていいかもしれない。

 

実際には、他者という鏡の中にそれを見てしまっている事実そのことこそが、自分の中にもそれがあるのだということを暗黙のうちにハッキリと認めていることになるのだけれど。

 

なぜなら人は、自分の中にないものは、他者の中にも決して見つけることはできないからだ。

 

たとえばこれは、アラビア語を全く知らない人が、アラビア語で書かれたとても卑猥な文章を見ても、卑猥だと思わないのと同じことだ。

 

この事実に気づいている人はとても少ない。

 

本来、自分の中に罪の意識がなければ、他者の中に罪を見ることもない、ということがみんなわからないでいるのだ。

 

いつも誰かを批判せずにはいられない、つまり、いつも自分自身を責めずにはいられない・・・人間とは何と業の深い生き物だろうか。

 

だからこれからもメディアは、批判できそうな誰かや非難できそうな誰かをせっせと探し出してきては、積極的に報道し続けることだろう。(その需要がなくなる日はきっと来ない)

 

そしてそのたびに、それを見た多くの人たちが、一度も会ったことすらないその誰かのことを、まるで当たり前のように、これでもかと責め上げることだろう。

 

自分でもなぜそんな不毛なことをしているのか、まるでわからないままに。

 

そうしてつかの間、自分の中に潜む深い罪の意識から逃れたような気分を味わうのだ。

 

「何て酷い人だろう、少なくとも私はあんな人間ではないはずだ、ああ良かった」と。

 

確かに、人を批判し非難することで、一時的には気分が良くなったような気がする。

 

少なくとも自分の方がマシだと思えるからだ。

 

だがこれは、非常に中毒性の高い一種の痛み止めみたいなものに過ぎない。

 

自分を責めるかわりに人を責めても、決して本当の問題解決にはならないのだ。

 

その証拠に、その人が罪を認めて謝罪しようが償いをしようが、やがてその痛みはしつこくぶり返し、あなたはなぜだかまた、自分のかわりに激しく誰かを責めずにはいられなくなるのだから。

 

実のところ、責める理由は何だってかまわない、自分のかわりに誰かを責めることさえできればいいのだ。

 

それは本当は、自分で自分を責め続けているだけなのに・・・

 

ちなみに、その人が他者の中の何を責めているかを見れば、その人が自分の中の何を罪だと思い恥じているのかがだいたいわかる。

 

たいていは、【お金】か【セックス】にまつわるものが多い。

 

ほとんどの人は、自分でも気づかないうちに、この二つについて酷い罪悪感を感じているからだ。

 

だから、他人のお金や他人のセックスについて、人はいつも苛烈に責め続けている。

 

お金もセックスも、本来は良いものでも悪いものでもないのだけれど。

 

どちらも【幸せ】【喜び】【自由】【開放感】【遊び】【力(パワー)】といったような喜ばしい感覚を人にもたらしてくれる点では似ている。(もちろん誤用されれば逆の感覚をもたらすことになるけれど)

 

それはつまり、【愛】の表現である。

 

ということは、お金やセックスについてあなたが誰かを責めてしまう時、本当はあなたは、他者の中に見える自分自身の【愛】の表現を責めているのである。

 

「そんな愛し方は許せない! あなたに愛する資格はない!」

 

「そんな愛され方は許せない! あなたに愛される資格はない!」

 

人を批判し非難している時、心の底であなたはそんなふうに思っている。

 

そして何より大切なことは、繰り返しになるけれども、あなたは本当は他者という鏡を通して、自分自身に対してそれを行っているのだということだ。

 

つまり、

 

「私のように堕落した罪深い人間には、自由に愛する資格などないし、自由に愛される資格などないのだ! だから、私は頑張ってもっと良い人間にならなければ!」

 

と思っているのだ。

 

もちろんこれは無意識下で思っていることだから、意識的にそのような自覚を持っている人はとても少ない。

 

だが、よく考えてみてほしい。

 

自分自身の中に【罪の意識】ではなく【幸せ】【喜び】【自由】【開放感】【遊び】【力(パワー)】を感じていたとしたら・・・

 

つまり【罪の意識】のかわりに【愛】を感じていたとしたら、果たして人は他者を責めたりするだろうか?

 

責めるとしたら、一体、何のために?

 

あなたも、そのことを一度、よく考えてみてはどうだろうか?

 

ところで、あなたは今日、どれだけの人を自動的に批判し非難してしまったことだろう。

 

あなたは、それだけの莫大な否定のエネルギーを、本当は自分自身を否定し罰することにつかい続けていたのだと、もう気がついているだろうか?

 

試しに、今度また誰かを批判し非難したくなったら、自分自身に向かって静かにこうつぶやいてみるといい。

 

「私は本当は、あの人の中に見える自分自身の罪を責め続けているだけなんだ」と。

 

そして、さらにこうもつぶやいてみるといい。

 

「なぜなら、自分以外の誰かの中にそれを見ることで、私自身はそうじゃないと思いたいから」と。

 

誰かを批判し非難したくなるたびに、その行為の不自然さに気づけるようになったなら、きっと、あなたの中で何かが変わり始めるだろう。

 

もっと違う目で、他者を見ることができるようになるだろう。

 

そうしてあなたは、真の意味で「優しい人」になっていく。

 

愛するために、あるいは、愛されるために、もっと頑張る必要なんて全くない。

 

ただ、自分とその人を赦(ゆる)しなさい。

 

それだけでいい。

 

他者という鏡の中に映る自分自身の罪だと思えたものを、ただ、赦(ゆる)しなさい。

 

それが愛でなくて何だろう?

 

それを愛と呼ばずに、他の何を愛と呼ぶのだろう?

 

あなたがあなたを赦(ゆる)した時、

それでも目の前の誰かを許せずにいられることなんてあるだろうか?

 

あなたがあなたを赦(ゆる)した時、

それでも目の前の誰かを愛さずにいられることなんてあるだろうか?

 

また自動的に誰かを批判し非難したくなる前に、

少しだけ立ち止まってそのことを考えてみてほしい。

 

そうすれば、

 

きっとあなたは、真の意味で「優しい人」になっていくはずだから。

 

 

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コメント

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  • コメント (1)
    • ゆみ
    • 2017年 8月 11日

    依存的な母親に対して受け入れ難いものを感じていますが、それは自分に対して受け入れられない部分でもあるのですね。ちゃんと自分を見つめて、自分のこと赦していきたいです。そしたらすごく自由になれる気がします。ありがとうございました。

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